飛田穂洲
~一球入魂~飛田穂洲
父忠兵衛,母やすの次男で4番目の子として,明治19年(1886年)12月1日大場村前大場に生を受ける。明治26年に大場尋常小学校(本校)に入学,3年間学んだのち常澄高等小学校に入ったが,父の方針で磯浜高等小学校に転校する。
明治35年水戸中学校(現水戸一高)に入学し野球部にはいる。3塁手として活躍,4年生からは主将を務め,水戸中学校野球部の最初の黄金時代を築いた。
明治40年(1907年)早稲田大学に入学し,野球部に入り2塁手として活躍した。明治42年からは自ら主将を務め,明治43年には約2か月間ハワイにも遠征して,早稲田の名を高めた。しかし明治43年秋に来日したシカゴ大学に大敗し,潔く主将を辞任,野球部も辞めた。
大正2年(1913年)大学を卒業し,翌3年2月28歳で古河市の土信田栄三郎の長女ひろ子夫人と結婚した。大正8年早稲田大学野球部の初代監督に迎えられ,「練習は生命なり」「練習で泣いて試合に泣くな」を目標に激しい練習が繰り返され「千本ノック」と呼ばれた。38歳で監督を引退したが,6年間の監督在任中の公式試合の勝率は81%であった。
大正15年(1926年)朝日新聞社の野球評論家となり,激烈な中にも冷たさはなく,情を交えた美文調で選手を鼓舞し,読者を感動させた。「一球入魂」は有名な言葉で,今日でも盛んに使われている。
昭和22年(1947年)推されて,大場村長と大場小学校初代PTA会長に就任した。野球記者・野球評論家としても活躍しながら,3反歩(約30アール)の田畑を耕したり著作活動に従事したりした。昭和32年11月3日に,紫綬褒章を受章する。昭和40年1月26日,76歳をもって自宅で永眠した。
お墓は,東光寺(大場町)にある。
一球入魂~学生野球に捧げた生涯~
掲載日 平成27年8月6日
更新日 令和3年6月28日
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